2段審査に合格されましたTさんの感想文です。
3月17日
2段審査を受けて
合気道について考えていることを書けといわれると、少々⼾惑ってしまう。考えさせられる ことはあるにはあるのだが、まとまった意⾒として⼈に⾔えることは何もないように思え るからだ。このまとまりのない感覚すべてについてつらつらと筆を進めてみても、⽀離滅裂 な⽂章になりそうな気がするので、今回は合気道における「暗黙知」の習得という⼀点に絞 って気がついたことを書いてみようと思う。
「暗黙知(Tacit Knowledge)」とは、Michael PolanyiがPersonal KnowledgeやThe Tacit Dimensionといった著書の中でのべた⾔葉に端を発する。Polanyiは「我々は語ることがで きるより多くのことを知ることができる」というところから話を始める。例として、⼈の顔 をあげ、私たちは瞬時に⼈の顔を識別できるが、どのようにして、ある⼈の顔を別の⼈の顔 と区別して認知しているのかを⾔葉で語ることができないと述べる。結果、Polanyiによる と、ある⼈が保有している「暗黙知」は「個⼈的知識」とならざるを得ないこととなる。こ ういった知識の構造は、⼤学のような⾔葉を操る現場にも存在し、その習得のために実習の 時間が設けられる。「暗黙知」の所有者すらが、その知識を明確に説明する⾔語を持たない がゆえに、熟達者の「例⽰」においてでしか、知識を伝達することができないからである。 Polanyiはいう。⾔葉によって語ることのできない知識が「相⼿に受け⽌められるか否かは、 ⾔葉によって伝えることができずに残されてしまうものを、相⼿が発⾒するか否かにかか っている」と。さらに、Polanyiによると、「暗黙知」に包まれた技能の習得のためには「有 効性を明確に分析し説明できない時ですら、教える⼈を信頼し従う」ことが不可⽋であり、 この権威に従うことでしか伝えることのできない技能の存在ゆえに、「個⼈的知識の蓄積を 保持し続けたいと考える社会は、必然的に伝統に従わなければならない」こととなる。
須磨師範はじめ合気塾の諸先輩⽅は、「⼒を抜く」「姿勢を正す」「中⼼を合わせる」「結びを ⼤切にする」といった様々な⾔葉を使い、合気道の技における⼤切なポイントを助⾔してく ださる。しかしながら、合気道の技のポイントをその細部にわたるまで正確に表現するには 圧倒的に⾔葉が⾜りない。「近すぎず遠すぎない間合い」とは⾔えても、相⼿や⾃分の体格、 相⼿の⾜の向き等の様々な条件によって変わりうる適切な間合いを⾔葉で正確に⾔い尽く すことは困難であろう。「剣の振り」のようにと⾔っても、すべての技の所作が⼀⼨の狂い もなく「剣の振り」と同じ軌道を通るという意味ではないはずだ。「剣の振り」という「例 ⽰」を通じて、上⼿が伝えようとしている体の動かし⽅のポイントとは何かということを、 我々⾃⾝が探す努⼒が不可⽋となるのである。
私にとって、合気道はそういった⾔語化の困難な「暗黙知」を習得するためには何が必要か を学ぶいい機会であった。初段審査の時の論⽂で当時⾃分⾃⾝が興味を持っていたヴィパッサナー瞑想と合気道を⽐較して、「外部からの刺激に抵抗することなく観察することの⼤ 切さを説くという点においては共通の姿勢を⽰している」と述べた。その時の「外部からの 刺激」とはまさに「暗黙知」を得るヒントになるものである。残念ながら、酒すらやめられ ない煩悩の塊である私にとって、ヴィパッサナー瞑想を⽇課として定着させることは難し かったが、とにもかくにも合気道は続けてくることができた。その理由の⼀つとして、良き 指導者に恵まれたということがあげられるだろう。「例⽰」を⽰してくださる上⼿の存在抜 きには、「⼒を抜く」「間合いが⼤事」等の⾔葉の背後にある「適切なバランス」というもの について何も情報を得ることができないからである。加えて⾔うならば、本来、⾔語化が困 難な合気道の持つ「暗黙知」の勘所を、少しでも「⾔語化」して、伝達を容易にしようとす る師範や合気塾の諸先輩⽅の並々ならぬ努⼒抜きには、学びの⽅向性を⾒失い意気消沈し ていたかもしれない。
もちろん、上⼿の助⾔だけでは合気道の技のポイントは理解できるものではないことは述 べたとおりである。しかしながら、それは何も合気道特有のことではない。他の武道・スポ ーツ・作業現場・⼤学といった様々な場⾯で多かれ少なかれ共通に存在する問題である。た だ、合気道の場合、他とは異なる合気道特有の難しさもあるように思われる。試合のない合 気道においては、どれだけ稽古をしても、⾃分が正しい技をしているという確信をあまり持 てない。「受け」の受け⽅ひとつで、技はかかるときもかからないときもあるからである。 そのため、合気道における「暗黙知」を理解するためには、どのようにして「確からしい」 情報を⼿に⼊れるかを学ぶ必要があるように思える。
私の経験からすると、「取り」よりもむしろ⾃分が「受け」ている時のほうが「確からしい」 情報を得ることが多い。⾃分でどのような「受け」をするのかはある程度コントロールでき るからである。特に、上⼿な⼩学⽣の技を受けることは⾮常に勉強になる。どれだけ技の優 れた⽅であっても、体格に優れた⽅の技を受けることからは、技の適切さゆえに崩されたの か、体格がいいがゆえに崩されたのかの識別は難しい。確かに、腕の筋⾁の硬直具合から、 腕に⼒が⼊っているかどうかを感じることはできるが、そもそも、体格のいい⽅の「⼒を抜 く」と私の「⼒を抜く」が同じ意味なのかどうかがわからない。その点、⼩学⽣はどれだけ 上⼿な⽅でも、⾃分のほうが筋⼒にまさることはほぼ間違いがない。それにもかかわらず、 上⼿な⼩学⽣の技には振り回される。その時に、合気道が伝えようとしている⽐較的体格に 依存しない技のかけ⽅というものがあることに確信を得る。もちろん、全⼒で私が⽌めに⼊ っていたら、ほとんどの⼩学⽣の技はかからなかったかもしれない。その意味で、相⼿を制 するという観点からすると、体格のある⼈間が有利なことに違いはない。ただ、⼤切なこと は、それでも、上⼿な⼩学⽣の技を「無理してでも阻⽌したい」とは思わないということで あろう。適切な間合いと⽅向で⼊ってきた技は、⾃然と私⾃⾝が倒れる⽅向に流れているが ゆえに、相⼿の動きにそのままゆだねながら受けるのが最も楽で⾃然な気がするのである。
こういった体験は、私が合気道に対する理解を深めることに役⽴った。おそらく、私より体 格のある⽅も、意識的か無意識かは別にして同じようなことを感じているのであろう。そう であれば、⽬指すべきは、相⼿を制することではなく、いかにしてどのような体格の⼈に対 しても「この技の⽅向ならば、⾃然に受けられるな」と感じてもらえる間合いや技の⽅向・ スピード等を探ることではないか。それを今の⽬標として⽇々稽古を⾏っている。
実のところ「この技ならば、⾃然に受けられるな」と思ってもらえる間合いや技の⽅向・ス ピードとはどういったものかについて「確からしい」情報を得るためにも「受け」が役⽴つ ように思える。いろいろな⼈の技を受ける中で「⾃然に受けられるな」と思える⼒の動きと 「なぜか受けたくないな」「その⽅向は⾃然じゃないな」と思う⼒の動きの違いを感じるよ うになる。その理由を考えいてるうちに、「受けたくないな」と感じる技に対しても「ここ を少し変えてもらえると楽に受けることができるのではないか」という考えに⾄る時があ る。その時に、相⼿に⾃分の気持ちを伝え、相⼿が⾃分の意⾒を受け⼊れて体の動きを修正 してくださり、さらに⾃分がこれなら⾃然に受けれられると感じた時には、⾃分の助⾔の正 しさを体感できるため、⽐較的体格に依存しない技のかけ⽅の具体的内容についてある種 の「確からしい」情報を得ることができる。
ただ、適切な技の具体的内容に確信を得たからと⾔って、その通り⾃分が技をかけることが できるわけではない。そのため、「取り」の稽古はやはり⽋かせない。しかしながら、「受け が⾃然に受けられると感じる技」を⽬標にしながら「取り」の稽古を⾏ったときにさけては 通れない難問がある。⾃分の技を「受け」がどう感じたかを⾃分⾃⾝が観察することはでき ないということである。技をかけた時の相⼿と⾃分の⼒のぶつかり具合の感覚をたよりに、 それまでに師範や諸先輩⽅に⾔われた⾔葉、⾃分のそれまでの経験、⾃分がある程度確信を 得ている適切な技の具体的内容等の知識をフル稼働しながら、何が起こっているかを想像 していくわけだが、「受け」の受け⽅によって⾃分が感じる「ぶつかり具合の感覚」も変わ る上に、その感覚だけでは何が問題なのかを特定しにくく、なかなか意味のある「確からし い」情報を得ることは難しい。
結局のところ、「取り」の稽古において、より「確からしい」情報を得るためには、⾃分が それまでに理解した体の動かし⽅に対する仮説を⾃分なりに実⾏してみて、どのように感 じたかということを、実際に受けた⼈に直接聞く必要があるように思える。これは、「暗黙 知」を探るためのヒントを「受け」の⾔葉を頼りに探るというプロセスともいえる。この時 も、上⼿の意⾒と⽩帯の意⾒両⽅に価値がある。上⼿は、今までの経験から、私の体の動か し⽅の問題点を指摘してくれる。その助⾔の⼀つ⼀つを参考に、あらたに⾃分なりに技に対 する仮説を練り直し、次の稽古で試すことになる。もっとも、上⼿⾃⾝が⾃分⾃⾝の繰り出す技のポイントを明瞭に⾔語化しきれない「暗黙知」の習得において、上⼿の⾔葉がすべて 私に当てはまるとは限らない。⽩帯の⽅の「受けがとりづらかった」「⼒が⼊っているよう に感じた」といった素朴な感想のほうが時に真実に近い可能性がある。その場合、そういっ た素朴な感想に対して⾃分なりに解釈を⾏い、技を修正し再度試してみることとなる。
もっとも、実際に「受け」がどのように感じるかは、これまた⼈によって千差万別であるた め、このプロセスも何度も繰り返す必要が出てくる。そもそも、体幹のしっかりとしている ⽅は、「受けるのが⾃然だな」と感じることそのものが少ないように思える。また、⻑年合 気道をされている諸先輩⽅は、どのようにすれば崩されるのかを知っているがゆえに、崩さ れないように体を動かすこともできるようだ。そういった様々な⼈との「受け」「取り」両 ⽅の経験を繰り返す中で、「⽐較的多くの⼈には無理なく受けていただいているようだ」と いう⾃分の認識を反駁することが困難だと考えられる「⼒のバランス・間合い・⾓度・スピ ード等」に関する⾃分の体内部の感覚(個⼈的知識)が出来上がる。「暗黙知」を得るため にこれだけ⻑期のプロセスが必要であるからこそ、合気の技を習得するには時間がかかる といわれるのであろう。
このように、合気道において「確からしい」ことを発⾒するのは⾮常に難しい。しかしなが ら、わかっていることもある。初段審査において、私は⼤國さんに「受け」を取っていただ き、最後まで体⼒が持たずヘロヘロになった。⾃分のスタミナのなさを反省し、炭⽔化物ダ イエットを⾏い、5キロやせることに成功したが、不覚にも2段審査までには、5キロのリ バウンドをしてしまった。結果、2 段審査において、またしてもOさん・Fさんの連合の「受け」 の前に、最後まで体⼒が持たず撃沈してしまったのである。結果、「借りを返すのは、3 段 審査までお預けになった」ということは、悲しいことではあるが「確からしい」事実である ように思うのである。
注意していたのにやはり、とりとめのない⽂章になってしまった。⼰の未熟さを痛感させら れる。しかし、未熟ながらもこうやって⽂章をしたためてみると、当たり前すぎて忘れがち ではあるが、もっとも⼤切で、もっとも「確からしい」事実を再認識させられる。それは、 須磨師範や諸先輩⽅の⼿厚い指導はもとより、⽇ごろから私のような頑固者とも笑いなが ら稽古を⼀緒にしてくださる⼼優しい合気塾の皆様を抜きにして、私がこのように合気道 の技に秘められた「暗黙知」を解き明かすための⼿がかりを探し続けてくることはできなか ったであろうということだ。御⼀⼈御⼀⼈の名前をあげられないのは申し訳ないが、この場 をかりて深く感謝の辞を述べさせていただきたい。
「皆さん、いつも本当にありがとうございます。」
コメント入力はこちら