4段審査での感想、小論文
10月26日

審査までの期間をみましても、初段から弐段および参段から四段審査までに共に約10年を要していました。いずれも約6年間、稽古が殆どできない実質的な中断期間がありました。中断期間は、仕事でいえば休職にあるにもかかわらず、稽古再開をお許しいただきました須磨師範には大変感謝いたしております。実質的に6年間も中断しながら、二度も合氣道を再開して稽古を続けるようになったのは何故か?と自分自身に問いかけてみました。次のような合氣道の魅力を改めて発見できたことによると考えます。 1.
稽古を通じて稽古相手とコミュニケーションできた心地がする。 稽古での「結び」を心がけることにより、相手の性格、気質、技量だけでなく、一瞬ではあるが心の一部が繋がり、言葉では出来ないコミュニケーションができた心地になれる。これが心地よい。 2. 初心に戻れば、現在の自分の体力・技量に合わせた稽古ができる。白帯の方の受けを取りながら、リハビリから始め、現在の自分の体力・技量レベルに応じて稽古ができ、一からでもやり直し易い。「試合おこなわない」長所が活かせる。 3.道場と稽古仲間に恵まれた。中断後に道場で稽古を再開すると、以前から続けている人たちの進歩に驚かされ、新たに入門された方々の熱心さに感銘し、稽古を再開すれば「自分もまた上達できるかもしれない」と希望が湧いた。 今では中断も、自分自身を客観的にみるための冷却期間が得られたと考えています。 人間は同じことを3年も続けると、ともすれば、慣れることで初期の驚き、探究心を忘れがちです。特に「技の型」から入り、型稽古中心の合氣道では、各自のレベルで「技の型」を覚えると「自分は、いっぱしの技ができる」と錯覚してしまいがちです。 盛平翁先生亡き後、翁先生の変幻自在の技を「一般の人」にも学びやすくするために、現在の表裏の「各技の型」が体系化された経緯があります。また、「試合形式でなく型稽古を行う必然性について」は、佐々木師範から「盛平翁先生は『試合は遺恨を残す。』と述べられたことから合氣道には試合が無い!」と教えを受けました。従って合氣道では「技の型」から入って各種技の根底にある、共通原理を体得し、相手に応じて「技の表現形」を変化させて対応できるようになる。そのために「型稽古を繰り返し行う」ことが合氣道の稽古であると考えています。
自分自身を省みますと、日々新たな心で稽古する際の障害は自分自身の心にある「慢心」と自分の習得した技を捨てながら次の技を習得することが遅遅として進まぬ事に対しての「ジレンマ」にあったと思います。幸いにして中断期間を置くことで、自己の技の欠点を客観的に見ることができるようになり、今までの技を捨てて初心に帰る心の整理ができたと考えます。「継続は力なり」と言いますが、「中断も、前進のための力なり」と思っています。現在中断されている方々も、稽古を再開していただければ同じ思いをされることと考えます。
俗に物事を行うのには「天の時、地の利、人の和」が必要といわれます。仕事を持っている人間にとってはいずれかの要素が欠けても「稽古」は続けられず、「合気道の稽古を続けられること」はそれだけで大変幸せなことだと、あらためて感じています。自分自身の経験から、稽古ができた時期は仕事も家庭内も比較的順調な幸運な期間であったと思います。リーマンショックからこの一年、不況にもかかわらず稽古を続けることができた一事をとっても「幸運であった」といえると思います。
今まで述べましたように、私にとって合氣道とその稽古とは「日々心を新たにできるもので、幸せを測るための定規」と定義できると考えます。
今後は稽古を中断されている方に再開のお手伝いができればと考えています。また、個人的には「型」から入って、その「型」にとらわれず、「型の呪縛」からできるだけ自由になるために①結び・崩しへの移行、②そのための姿勢・腰構・足さばきを新たに変革していきたいと考えています。
以下、Oさんからのコメントです。
福西先生の文章を拝見しました。私も最近、自分が合気道の稽古を続けられる幸せをしみじみ感じています。先生をはじめ皆さんに力をいただいている事に感謝しています。
お二人の素晴しい所感、感じ入りますね!
今回、お二人の審査を拝見する機会を得、今一度合気道の奥の深さに感動いたします。このような機会を得ることが出来、全ての方に“感謝”です。