お知らせ

2段審査に合格されましたOさんの論文です。

5月01日

二段審査を終えて

初段の昇段審査を受けてから、二段審査を受けるまでの約4年間、コロナ禍に加え、私自身の生活環境も変わり、今までとは打って変わって中々思うように稽古に参加することができない状況ではありましたが、私にとって合気道は何なのか、どうして合気道を学びたいと思うのか、改めて振り返るにはとても良い期間でもありました。

私自身、合気道に惹かれたのは「勝敗がない」というのが一番の理由です。「勝敗がない」ということは自己研鑽。自己研鑽は「他人軸ではなく自分軸」「他責ではなく自責」。そういった概念を前提として生きるために多くの学びを与えてくれると思ったからこそ、私は合気道に惹かれ、そして今でも魅了され続けている要因の一つであると思います。

自己研鑽というと「自己責任」「自業自得」など、とても重々しいイメージを持たれる場合もありますが、私はそういった意味合いでは捉えてはいません。どちらかというと自分への負荷を減らす、楽に生きるために必要なものだと思っています。その自己研鑽である稽古の中で、私が意識していること学んだことを纏めたいと思います。

——
結び
——
相手との繋がりがあるからこそ、自分の状態を感じることができる。逆に相手との繋がりがなければ、独りよがりの技になってしまう。そうは言っても「繋がっていると感じているのは私だけではないだろうか?」と思うときも多々あります。しかし、その思いに囚われすぎて思考優位にならないことも同時に意識しています。それは、一人稽古では得られない、相手がいるからこそ感じられる感覚があるからです。相手がいなければ、自分の課題には気付けない。そう思うと稽古の一瞬一瞬がかけがえのないものであり、ワクワクが止まらないものとなります。

この「結び」は、日常生活でも生かされています。相手の思考やどう思われているかに囚われず、自分がその相手に向き合ったときに何を感じ、どうしたいのか。その理想を叶えるためには自分はどう動き、何を鍛えたら良いのか。相手を通じて自分を知る。心理学でいう「投影」に近いかもしれませんが、この思考はネガティブに陥ったときに、より力を発揮すると日々感じています。

——————————
「丹田力」と「脱力」
——————————-
先に述べました「結び」の感覚を得るために大切なのが「丹田力」と「脱力」だと私は思っています。
丹田からの力を滞りなく、指先、足先へ届けるためには、背骨や肩甲骨、股関節、膝の柔らかさが必要であり、どこかに力が入ってしまうと、そこで力は滞ってしまう。特にイレギュラーなことが起きたり、緊張をしている場合、そして思考優位になっている時に、体に力が入り過ぎて「丹田力」が消滅してしまう自分がいます。どうしたものかと頭を抱え込みたくなる瞬間もありますが「気付き無くして学び無し」と言い聞かせ、「気付けなかった以前の自分からは少しは成長しているはずだ」と前向きに捉え、少しずつでも良いから着実に身体に憶えてもらうことを意識しています。

「脱力した上で、いかに最大限の力を発揮するか」これは、私が敬愛する元プロ野球選手の鳥谷敬選手が、守備練習で常に心掛けていたことだそうです。彼が所属していた阪神タイガースは、甲子園球場がホームグラウンド。甲子園球場は、人工芝ではなく天然芝と土のグラウンド。それ故にボールがイレギュラーな跳ね返りをすることが多いそうです。元々人間は、イレギュラーなことが起きると自然と力が入ってしまう。そうなると体は硬直し、体に当たったボールも大きくバウンドしてしまい、プレーに無駄な動きが増えてしまう。だからこそ、日々の練習では、いかに脱力した状態で正確なプレーをするか、それを徹底的に体に憶えさせていたそうです。

合気道も同じだと思いました。自分が硬く硬直した状態で技をかけようとしても、相手には伝わらず、むしろ跳ね返りが起こり、自分軸が崩れてしまう。また、合気道だけでなく対人関係でも同じだと思います。自分の思考に囚われ、頭でっかちな状態でコミュニケーションをとると、大体は嫌がられます。嫌がられるだけならまだしも、最悪なのは無視です。私は存在しないものとして扱われる。そんな悲しいことがありますでしょうか。だからこそ、柔軟でありつつ、芯はブレない、そんな状態を出来る限り目指していきたいです。

——————————————————————————自分の脳内で湧き上がる思考は、過去の延長線上にしかない
——————————————————————————稽古に参加する度に、新たな発見や課題が生まれます。その課題に向き合うとき、どうしても自分の中での解釈や思考に囚われてしまう瞬間があります。そんな時は「考えるな感じろ」と自身に言い聞かせています。映画「燃えよドラゴン」でブルース・リーが放った台詞でもありますが、頭(思考)で考え過ぎることは、結果的に遠回りであると私は思っています。課題があるということは、今の自分ではできていないということ、すなわち今の自分の思考でいくら考えても、今の自分からは抜け出せない。あーだこーだ考えず、とにかくやってみる。そこで得た学びを体感として腑に落とし、体に記憶してもらう。それを繰り返すことで、少しづつ身体は変化していき、いつの日か、心と体が一致した技へと導かれるのではないかと感じています。この感覚は、合気道に出会えたからこそ体感できたことであり、私にとって大きな喜びでもあります。

以上が、私が稽古に取り組む際に意識していること、感じたことです。まだまだ身体は思うように動かず、悔しい思いを抱くこともありますが、私にとって合気道は楽しくてたまらないもの、辞める理由が一つも浮かばない存在となりました。そのような存在に出会えたことが本当に嬉しく、幸せなことであると日々感じています。

最後になりましたが、改めてご指導を頂いた須磨師範、指導員の先生方、いつも一緒に稽古してくださる皆様方に心より感謝を申し上げます。いつも本当にありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

コメント入力はこちら