お知らせ

2段審査に合格されましたKさんの論文です。

4月20日

塾生の皆様へ
いつも稽古にご参加有難うございます。さて、この度2段審査で合格されましたKさんの論文を添付及び下記しますのでご参照下さい。

【小論文】
『”強いってなんですか?”これは、幕ノ内一歩というボクサーの言葉です。
年をとるつれ、力で相手をねじ伏せることが”強さ”ではないと分かるようになってきて、そうすると、余計に強さとはなんだろうと考えます。当然、その答えは今もないのですが…。

大阪合氣塾に入会したての頃、ある方(お名前は失念してしまったのですが、確か四段の方だったと思います)に「合気道も武道である以上、相手を”制する”事が本質なのではないか」という話をぶつけてみたことがあります。そうするとその方は、”おさめる”という事が合気道の本質ですと仰いました。須磨先生は刀を絞る時、”丹田におさめる”という言葉を使われます。それと同じ意味なのか?よくわからぬままに時はすぎ。

”武”という言葉は、”攻”のイメージが強いですが、一説によると、鉾を表すと同時に盾をも意味するとのこと。なにやら禅問答のようですが。
よく、武道では、”攻防一体”という言葉を聞きます。防即攻につなげるという意味で使われている事がほとんどだと思いますが、ちょっと見方を変えて(字面通りに捉えると)、攻と防に境界は無いという意味かもしれないと思い直してみました。
そこで、”合気”、”気を合わせる”という言葉とつながります。気を合わせたとき、彼我の境界が曖昧になり、事が決する。
”制する”が主従関係の生起とすると、”おさめる”とは”和”の生起という事でしょうか。
いつぞやの稽古で、須磨先生が合気道は新陰流の流れを組むと仰ったとき、ある光景がフラッシュバックしました。時は戦国、世は情け。NHK 宮本武蔵の一幕で、武蔵が柳生石舟斎に挑み、次の瞬間、刀を取られているという場面があります。石舟斎が使った技の名前は,“無刀取り”新陰流といえば、上泉伊勢。その弟子である石舟斎は新陰流の分派である柳生新陰流を創始した人物。無刀取りは剣聖・上泉信綱が考案し、石舟斎が完成させた奥義。無刀取りがどのような技であるか、実際に劇中で披露されることはありませんでしたが、当時子供だった私は、わくわくドキドキしながら、宮本武蔵を鑑賞していました。

時が経ち、合気道の稽古を長年続けた今、”気を合わせる”事が合気道の真髄であり、その先に”おさめる”があるとすると、新陰流の奥義である“無刀取り”は、それを体現したものではないのかと考えるようになりました。そして、新陰流の真髄である“無刀取り”を私たちは日々鍛錬しているのではないかと。そう、”一教”です。奥義といって隠したりしない。ド頭に持ってくるのです。なんと気前のいいことか。と、勝手な妄想にふけっています。

気づけば、大阪に戻って来て 10 年以上経ってしまいました。早いものです。合氣塾に入った時は5級だった私も、気づけば二段審査を受けるまでになりました。須磨先生をはじめ、塾生の方々には感謝の言葉しかありません。

少し昔話をすると、私が合気道という武道を意識したのは、映画の名前は忘れてしまいましたが、スティーヴン・セガール(ハリウッド俳優です)が普通の武道の動きとはちょっと違う動きで悪漢を一瞬のうちにたたんでしまったのを見たとき、”なんだこれは”と衝撃を受けたのが最初だったと思います。
調べてみると合気道らしいということ。当然、知っていました、合気道。ただし、伝統空手と同じ型稽古。若いころは、型稽古と言ったら、様式美だけの抜け殻だと思っていました。ところが、ところが、ジャッキーチェンよりよっぽど実戦的。(ジャッキーごめん。私は、ジャッキーも大好きです)
その話をPさん(以前合氣塾にいたカナダ人)にしたら、”奴はレイ〇ストだ”と言われ、私は、”そうか”とだけ言って、話はそこで終了。そういえば、意味もなく地域マイノリティの店に悪漢と縺れて乱入し、悪漢をボコボコにすると同時に店もボコボコにするシーンが映画に必ず入っているなぁと思っていたので、なんとなく納得してしまいました。ただ、当時は、セガールの見せる合気道に”制する”という意味で魅せられた事は確かです。

それからだいぶ経って、学生生活を送った大阪を離れ、東京で就職して、学生時代の友達もいないので、なにか個人技で始められる運動は無いかと合気道を始めました。アスリートは年齢的なピークを過ぎれば、あとは下り坂。寄る年の波には勝てない。これは普遍的な真理で、私も年をとるにつれ、どんどん体力は落ちてくる。しかし、合気道は年を取れば取るほど強くなると聞きます。そんなうまい話があるのだろうか。もし、本当にあるのだとしたら、それを見てみたい。それが合気道を始めた動機であります。

大阪に戻って来て、最初に洗心館で”合気道のクラブとかないすかね?”と質問したところ、”合気道はいないねぇ”とか言われ、”そうなんだと”と思い、それをPさんに話したら、”そんなことは無い”と、”現に俺がやってる”と言われ、現在に至ります。恩師の謝恩会かなにかで大阪に来ているときに、Pさんが空手をやっていると言うので、私は合気道をやっているといい、Pさんに合気道の存在を教えました。時は経って、今度は逆にPさんに大阪合氣塾の事を教わる。縁とは、なんとも不思議なものですね。

”制する”という意味での武道を否定するほど、私は、善良な人間でも、温厚な人間でも無いですが、”おさめる”という思想は、とても日本的で、”武”という言葉が二重の意味を持つ事と通じます。二度おいしいとはこの事かと。
よく、須磨先生が”合気道は二人で技を完成させるもの”と言われます。今でもその言葉の深淵は分かりません。

”武”の先に”強さ”があると思い始めた合気道が、当初思っていたもの以上の”強さ”を教えてくれたことに、今、かすかなよろこびを覚えています。「無刀」という言葉を、その精神性を心に刻みながら、今後も合気道の稽古に精進していきたいと考えております。』

 

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