3段審査に合格されましたSさんの感想です。
1月23日
今回、須磨先生より昇段審査のお声をいただき大変ありがたく感じております。また、指導員の先生方や道友の皆さんにもお礼を申し上げます。
私の合氣道人生を振り返りつつ、日頃、感じていることを思いつくまま書かせて頂きます。誤った解釈や表現で、ご異論の生じることもあると思いますが宜しくお願い致します。
【かれこれ約50年】
高校のクラブ活動で合氣道に出会ってから途中20年ぐらいのブランクはありましたが約約50年も経っていると考えると感慨深いものがあります。
高校の時は、一教はこんな形、四方投げはこんな具合、小手返しはこんな風といった感じで形を覚える程度で終わりました。それでも阿部醒石先生から初段を頂いたわけですが、大学でも合氣道を継続した先輩達との稽古でレベルの違いを知る機会が何度かあり、私も継続しようと思いました。
大学の4年間は、学業は程々にどっぷりとクラブ活動中心の生活を送っていました。そうすることができたのは、佐々木将人先生との出会いがとても大きかったと思っています。合氣道の稽古を通じて先生が話されたお話しの数々は、その後の私の人生の糧や道標となっています。先生より四回生の時に弐段を頂き、卒業してからも当時OBが集まって稽古をする機会に恵まれていたので月に数回は稽古を続けていましたが、子供ができた頃から稽古から段々と遠のいていきました。
それから約20年のブランクを経て、たまたま開祖生誕の地の和歌山県田辺市に赴任することとなり、これはもう一度稽古をしろという啓示かなと考えて田辺道場で再開しました。 その後、大阪に戻ってから須磨先生に大阪合氣塾の塾生として迎え入れて頂き、今は稽古ができる幸せを感じています。
【呼吸力】
大学の時に本部道場で合宿をした時のことですが、内弟子は学生と見るや狙い撃ちされて無茶苦茶にやられる。今はそんなことはないのかと思いますが、当時は関節など思いっきりきめられたりしました。
そんな合宿中にたまたま高齢の方と稽古をする機会がありました。「あっ、ラッキー」と思っていたら、こちらの息が切れかけているのに相手は全くそんな素振り見せない、腕力勝負の学生合氣道と長年研鑽された方との呼吸力の差を実感した瞬間でした。
今も普段の稽古ですぐに息が切れるたびに、あの時のことが思い出されます。佐々木先生の教えに「出さないと入らない」があり、そのつもりでやっているのですが稽古不足で、未だ出来ていません。
【受け身】
私は、「取り」より「受け」の方が好きです。相手の中心を押さえ攻めながら相手の意図を感じつつ上手く受け身が取れた時は、少し悦に入ることも。
「合氣道の利点と欠点は試合がないこと」、また「合氣道には試合がないから、取りは受けが受けやすく技をかけ、受けは取りが技をかけやすい受けをとらないと稽古にならない」と言われます。欠点とそれている部分に関しては、取りも受けもお互いに丹田の重さを感じて稽古することが大切かと思っています。
堅い稽古になるかと思いますが、その方が正しい取りと受けが取れるのではないかと考えています。また、個人的には相手の力量に合わせて重さを変えた取りが出来るようになりたいとも思っています。
【中心】
「中心」については須磨先生の指導を受けてから中心の大切さを実感し、何とかして体現しようとするのですが上手くできません。極まれに出来たかなと思う時はありますが、すぐ勘違いだと気づかせられます。
先生から佐々木先生がよく言われていた「中心をみつけ、中心を守れば自由自在が許される」の教えをいただきますが、腰の動きが十分でなく腕力に頼っているので中心がずれてしまっています。本当に難しく今も遠い目標になっています。
【結び】
佐々木先生は「合氣道は受けと投げの結びの武道だ」とも言われていました。須磨先生もそれを大事にされて、ことあるごとにご指導頂いていますが、「中心」を正しく理解しないと出来ないので、受けがとても重くて動かないとか、すぽっと抜けてしまう状態です。私にとっては「中心」と「結び」は情けないほどできていません。
しかしながら、合氣道の面白さは分からないことや出来ないことが、いくつもあっても、同時に複数の疑問が解決したり、全く出来なかったことが急にできたりすることがあると思っています。ので、いつかできることを信じて焦らず稽古をして行こうと思います。
【争って争わない】
私がもうひとつ稽古で気を付けていることに「争って争はないところを探す」があります。これを最初に教えて頂いたのは佐々木先生ですが、自分より強い相手と稽古する時は、特に分かりやすいので心がけています。
四方投げで頑張られた時に、ぶつからないで動く場所(方向)があることに気がつきます。個人的には、これが「争って争わない」ということかなと思っています。とは言っても、いつも腕に力が入り腕力が出てしまう時が多いのも事実で、まだまだです。
【切符】
佐々木先生から弐段を頂いた時、自分は本当に弐段にふさわしい技量を有しているのか、「私は弐段です」と言えるのか疑問でした。初段の時は黒帯と袴を手にした嬉しさが先に立ち、そんなことは思いませんでしたが、大学の4年間で合氣道の難しさや深さを感じるたびに己の未熟さを痛感することが多く、弐段を頂いても自信がなかったことが思い出されます。
当時は、この弐段への昇段は、大学を卒業してからも合氣道を止めずに稽古をしなさいという意味で渡された「切符」と考えていました。
今回の審査で参段を頂けたとしても、今度は須磨先生から二枚目の「切符」を渡されたにすぎず、引き続き稽古を重ねて少しでも参段らしい技ができるように努めたいと思います。
【これから】
以前、今泉先生から「城下さんは、どんな合氣道を目指していますか?」と尋ねられたことがあります。大抵のことは即興で返すのですが、この時ばかりは返答に詰まり何も言えませんでした。同時に長年やってきて、そのようなことを微塵も考えたこともない自分が、とても恥ずかしく感じました。その後も思い出しては考える時もありますが、これはと言うものは見つけられずにいます。
ただ、とても暑い日や寒い日、気分の優れない時などは、稽古に行くのを躊躇うこともあるのですが、それでも一念発起(少し大袈裟)して道場に向かい稽古を終えた時は、とても充実した気分になり、やっぱり稽古をして良かったと感じています。
佐々木先生の「明るくなければ合氣道じゃない」のお言葉どおり、合氣道を明るく楽しんだ自分がそこにいることに気がつきます。今泉先生の問い掛けに対する答えにはなっていませんが、「合氣道を楽しめる人」であり続けたいと思います。
「三年稽古するより三年師匠」を探せ・・・・
この意味において、佐々木先生の薫陶を受けられた須磨先生のご指導を受けられることをとてもありがたく思っています。道場の門を叩くのが遅すぎた感は否めませんが今後ともよろしくお願い致します。
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