1月度の審査で初段審査を受けられるN越さんの感想です。
1月25日
『合気道初段審査を受けるにあたって』
初めて合気道に出会ったのは、はるか昔の学生の時、私は水泳部に所属してましたが、袴姿の女子学生
を見かけ、彼女らが合気道部やと聞いた時でした。
そのころ合気道については、全く知識を持たない私は、女子の為の護身術か何かかと漠然と思っていました。
その後、スティーブン・セガール等の映画で有名になり、男もするものとわかります。
約6年前に勤めていた会社の同僚、M田さんに、『一緒に始めませんか』、と勧められ、これまでやってきたアウトドアのスポーツ(登山、自転車、山スキー、カヌー等)とは全く異なるタイプのスポーツで、もし誘われなければ決してその気にならなかったであろう武道をやるかと不思議な気持ちで、吹田第二小学校の体育館(本部道場がない当時の稽古場)を訪れ、稽古を見学させてもらいました。
そこでは、準備体操から色々な技の稽古風景を見る体験をして、これは”面白そう”と思いました。それは、関節の可動範囲と可動方向を知り、相手の体との位置関係により、合理的に確立された様々な技の型を使って、相手を倒し、制するというところでした。『よし、黒帯・袴を目指そう』、という気持ちで始めました。
ここから始めて、何年か経つと、基本技、応用技と体の動きは真似ることで一応カタチは出来ているように思えてましたが、相手の体型の違い、相手の個別の癖、上段者の好意的な試練等により、スムーズな動きができないことが非常に気になるようになりました。これは、基本的な動きがきちんと出来てないことのようです。
やはり、いつも言われる基本が大切との教えを念頭に稽古を積んでいくしかないと思いつつも、変な癖がついていたりで、なかなか思うようにできません。年を取ると、合気道とは限らず、これまでの人生で使ってきた体の使い方、動き方に独特な癖がついており、特に直しにくいのかと、つい言い訳を考えたりです。又、通風の再発などによる体の不調もあり、黒帯・袴もだいぶ遠のきました。
この頃になると、恐らく誰もが同じように考えること、即ち、何のために稽古をするのか、自分はこの年になって、何を求めているのか、などと、考えてしまいます。開祖自身は、『ワシも死ぬまで修行の身である』との立場だったようです。これは、目的ではありません。目的は、現在の道主も、開祖が唱えた、『至誠の人をつくる』=『誠の心を持った、バランスのいい人をつくる』、を目指しているそうです。
別の人は、合気道の修行は、『あらゆる敵と戦って、これを倒すことを目的とするものでなく、自分自身の弱さのもたらす災いを最小化し、他者と共生・同化する技術を磨く。』更に、別の人は、『心と身体をセルフマネジメントできるようにし、今まで余分なところに入っていた力を、プラスの方向に正す方法を身につける』と言われているようです。
目的とするものは、色々あるようですが、私には未だ見えてきません。一番近いのは、『死ぬまで修行』の開祖のことばで、合気道だけでなく、何をやっても、『死ぬまで修行』と思いながら、生きていくと何か分かるかも知れません。
ただ、せっかく合気道と出会えたのだから、”いつの間にか技が決まり、誰かを救っていた”ということが起これば、生きていて良かったと思えるのでは、とバカなこと考えて、流れるような無駄のない動きを愚直に追求し、これからもコツコツ地道に稽古を続けていきたいと考えています。 以上
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