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初段に合格されましたTさんの感想です。

4月26日

 私が合気塾で稽古させていただくようになったのは、長男が小学2 年生の6 月であるから、今から8 年前のこととなる。私自身が小学2 年生から剣道をはじめたこともあり、子供にも、そろそろ何かを習わせたいなと思っていた。また、当時私は43 歳。年齢的にも、私自身も何か運動をしなければと感じており、できるならば、息子と何か一緒に新しく始められるものを探していた。

映画「AIKI」を見たことがきっかけとなった。車椅子に乗った青年が武術の修行をする姿が実話に基づいているということに素直におどろいた。今からから考えれば、青年が習ったのは「大東流合気柔術」であったが、あまり違いがわからないままに、「合気」という言葉をネットで検索し、いろいろと調べるうちに合気道に興味を持つこととなった。

中でも合気塾は子供と一緒に稽古ができるということで、まさに当時の私が求めていたものであった。早速、須磨先生に連絡を取り長男と合気塾を見学させていただいた。朝からの寝違いが痛い状態のまま見学に行き、吹田の集会所で稽古をさせていただいた日のことをよく覚えている。当時、長男は仮面ライダー電王にはまっていたが、その必殺技と合気道の「横面打ち」の技が似ていたこともあるのか、合気道にはすなおに興味を持ってくれた。

他の道場も見学していたが、息子の「わかりやすいのでここがいい。」という一言が決め手となって親子で合気塾にお世話になることを決めた。

あれから8 年。いつからか次男も合気塾でお世話になるようになっていた。海外出張や怪我といったことがあったにしても、初段まで長くかかったものである。当時の吹田の集会所での稽古を知っている人は、すでに黒帯になっているか、稽古から遠のいてしまっているかのどちらかである。そんな中でも、私が合気道をやめることなく細々とでも続けてくることができたのは、何かひきつけられるものがそこにあったからであろう。

実は、同じぐらいの時期から、合気道と同時にもう一つはまったものがある。古典仏教である。仏教というものをあまり知らなかった当時の私がたまたま読んだ書物から、古典仏教という形で東南アジアを中心に伝わっている釈迦の教えが、「宗教」というイメージからは考えられないほどに冷静に人の潜在意識を分析しているということを知り、びっくりしたことを記憶している。その後、何十冊かの書籍を読み、古典仏教のほうで実践されているヴィパッサナー瞑想というものをためしてみたりもした。当時私は知らなかったがヴィパッサナー瞑想はアメリカで研究がおこなわれていたらしく、脳科学や心理カウンセリングの実践などとも結びつきながら、近年「マインドフルネス」という名前で日本の書店で様々な書籍が山積みされている。

合気道と古典仏教。一見、関連性が薄いかに思えるものに同じ時期に興味を持ちはじめた理由を強引にひねり出すとするならば、「競争社会で生きていく姿勢の再考」という自分なりの課題に40 を過ぎてからぶち当たり、答えを出すための何らかのヒントを探していたからであるように思われる。マイノリティー問題に興味を持ち、競争社会の抱える矛盾にある種の憤りを感じていた学生時代。その後、一転して競争の役割を重視する経済学を志し大学院に進学する中で、自分自身も競争にさらされることとなり、学問の世界で何とか定職を得るに至ったのは30 代半ばであった。「試合することを快しとしない武道」「他者から評価されたいと思う自我の存在そのものを否定する仏教」それぞれの考え方は、職を得て目先の競争からは隔離され生活は安定する一方、大志をいだくといったことは現実味を帯びなくなっていた自分に新鮮な気持ちで受け入れられた。またその後も、少しずつ衰えていく頭と体を自覚するたびに、私は何か考えるべき材料を二つの考えの中に探していたように思う。

私が探していたものは、「自分の力ではどうすることもできないことが多い毎日と向き合いながら、いかに生きるべきか。」という問いに対する答えとして言い換えることができるかもしれない。興味深いことに合気道もヴィパッサナー瞑想も「外部からの刺激に抵抗することなく観察すること」の大切さを説くという点においては共通の姿勢を示している。この8年間は、この一見シンプルな教えを徹底することがどれだけ難しいことかということを実感させられる日々であった。心も体もびっくりするほどに自分の意思と無関係に外部の刺激に反応するのだ。

どれだけ「力を抜け」「相手が動きたい方向に誘導しろ」と言われても、微動だにしない他者の存在の前では、「そんなことできるわけがない」という感情しか浮かんでこない。そもそも自分の体が勝手に相手の力に抵抗している。観察しなければいけないことが、目に見えない筋肉や心のデリケートな動き、そして気づきにくい立ち位置であるため、元来大雑把な性格である私には無理な注文であるかのような気がしてくる。

それでも、8年間続けてくることができたのは、時々「あれ、今うまくいった?」という達成感を感じるからであろう。もっとも、そういった達成感の8-9割がたは後に、ただの「錯覚」であることを思い知らされることとなるが。それでも、時々感じる「錯覚」の魔術に魅せられて、知らないうちに8年がたっていたような気がする。もちろん、「錯覚」でなかったこともある。私にとって一番大きかったことは、私が絶えず重心を後方に置きながら生活しているということを確認できたことであろう。

実は、私は小さいころから足の指が動かなかった。別に生活に支障があるわけでもなかったので、そんなものだろうと気にも留めていなかったのだが、合気道の稽古の中で、自分の姿勢が知らず知らずのうちにのけぞっているということを理解するようになった。おそらくは、無意識のうちに力の入らない足の指に負担がかからないよう重心を後ろにのせる癖がついていたのであろう。ただ、改めて言われると確かにその姿勢はバランスのいいものではない。今はいいかもしれないが、年を取ると倒れやすくなるかもしれない。現在、気が付く範囲で自分のバランスを意識しながら毎日をおくっている。


「いかに生きるべきなのか」などといった大上段に振りかぶった問いに答えが出るのかどうかはわからない。しかしながら、すくなくとも合気道が40を過ぎた私の肉体にもできる適度な運動と子供たちと一緒に過ごせるささやかな時間を提供してくれたのはまぎれもない事実である。それだけでも合気道と巡り合えてよかったと心から思う。

今後も時々感じる「錯覚」の魔力に魅せられながら日々の稽古を続ける中で、知らず知らずのうちに心と体の無駄な反応が少なくなり、力みかえった問いかけそのものが不必要になる日がくることを信じて、子供たちと一緒に合気道を楽しんでいければと思う次第である。


最後に、初段という節目を迎えるにあたって、理屈っぽく頑固な私を粘り強くご指導くださる須磨師範はじめ諸先輩方、そしていつも稽古に付き合ってくださっている皆様への感謝の念をここに記して筆をおきたい。
2017年4月25日      T井K也

初段に合格されましたTさんの感想です。」へのコメント

  • 大國 一

    ご昇段、おめでとうございます。 たゆまぬ努力の成果がよく現れていた、素晴らしい審査だと思いました。

     学生時代から合気道に接していない私なども、何も考えず稽古に臨むというのが難しく、どうしても理屈っぽくなってしまいますね。 でも、それはそれで大変素晴らしいことではないか思っています。 私は合気道の稽古というのはは、人生を生きていく上での指針が多く含まれているように考えており、それは宗教にも、各種の思想学にも通じるのではないかと思っています。

     引き続き稽古を一緒に積み上げていきましょう。宜しくお願い致します。

    [2017年05月06日 14:48]

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