お知らせ

初段審査に合格されました宇治教室のFさんの感想文です。

3月12日

 

  宇治道場で合気道の稽古を始めて、約6年半が経過しました。まだまだ未熟なことだらけではありますが、個々の技(とくに基本技)の奥深さをつねづね感じており、そのことが私にとって合気道の魅力と楽しさにつながっています。宇治道場でいつもご指導いただいている羽賀文彦先生、合同稽古・審査会でたびたびご助言をいただきます須磨弘先生、そして、いつも稽古をご一緒させていただいている宇治道場生のみなさんには、厚く御礼申し上げます。先輩の方々に学ぶばかりではなく、私のあとに始められた方やジュニアの方々からも、脱力の仕方や手足の運びについて得るものが多いことを、日々感じているところです。

  合気道を始めたいと思ったのはじつは古く、高校生のころでした。大河ドラマ『山河燃ゆ』(1984年)で主人公が合気道をしている場面があり、印象深かったのを覚えています。日本の武道に少し関心はあったものの、当時は痩せ型で非力だったので、筋力を要する武道に取り組む勇気はありませんでした。ただ、それとはまったく対照的に相手の動きや力を利用する合気道という武道の存在を知り、習ってみたいと考えたことがありました。

  とはいえ、そのときはタイミングが合わず、合気道の門をたたく機会を逸してしまいました。そうこうするうちに四半世紀以上が経過し、当時、小学1年生だった次男が武道に関心を持ち始めました。そこで私が昔やってみたいと思っていた合気道を勧めて、宇治道場の体験稽古に参加させていただきました。次男は楽しかったようで、すぐに入門したのですが、私は稽古日である土曜日に仕事が入ることが多かったので、送迎の際に見学させていただくだけでした。

  ただ、時折、稽古の様子を見せていただくなかで、私自身もどうしても始めてみたくなりました。当時、すでに40代半ば近かったうえに、運動神経にはまったく自信がなかったので、「道場のみなさんの足手まといになるのでは…」という不安が大きかったのですが、羽賀先生の丁寧なご指導と道場生のみなさんの温かさのおかげで、何とかここまで続けることができました。

  稽古をするなかで日々実感するのは、基本技の奥深さと難しさです。片手取入身転換や一教、呼吸法にしても、脱力の仕方や間合いの取り方、体幹の使い方、そのために背筋を伸ばして軸がぶれない姿勢をとること、相手と一つの軸になるような距離の取り方など、あらゆる技に通じるエッセンスが詰まっているように思います。しかも、その「解」はひとつではなく、相手の体格や力のつよさ等々によっても変わってきます。深くやわらかい呼吸が途切れないようにして、息があがることを防ぎ、平常心を保つことも大事になってきます。

  ただ、私にとってはまだまだ難しいことも多く、とくに審査の際にはその不出来を痛感しました。一級審査のときには息も絶え絶えになってしまい、姿勢も崩れて、受けの方との距離も空いてしまっていたので、初段審査までにはそれを見直すことを心がけていました。しかし初段審査でも、個々の技を最後まできちんと詰め切れていなかったことを痛感しました。とくに短刀取りは、反省しきりでした。審査の最初のほうで動揺してしまい、その後、気持ちを十分に切り替えられなかったことも、精神面の未熟さを感じた次第ですが、それも基本技を徹底できていなかったことに起因していたように思います。

  このたび初段をいただけることになりましたが、正直なところ、自分の至らなさばかりを痛感しております。とはいえ、黒帯になったということは、自ら技量を高めるように努める「責任」が課せられたことのようにも思います。そのためにも「基本技の奥底にあるものをきちんと習得すべく努力を続けなければならない」ということを、改めて実感しているところです。

  少し余談になりますが、学生時代に合気道に打ち込んでいた知人が、「海外で重い仕事に取り組んで苦労していた時にいちばん役に立ったのが合気道だった」と話していたことを、折に触れて思い起こします。技そのものというより、合気道のなかで培った呼吸や姿勢が平常心を保つことにつながったとのことでした。彼が話したことをどれだけ理解できているのか心もとないですが、合気道は技を高めていくだけではなく、その奥底に深い内省を促す部分があるように思っております。合気道で求められる柔軟さも、どこかしら人の行動や思考のありようにも通じるように思います。論語に言う「不惑」の年はとうに過ぎつつも、それには程遠い自己を痛感する日々ですが、これからも稽古を通して、技そのものとともに自らの内面をも、少しずつ成長させることができればと思っているところです。今後とも変わらぬご指導のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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