9月度の審査で初段に昇段されたRさんのエッセイです。
9月28日
私の合気道
私が初めて合気道の道場を訪れたのは2012年1月のことだった。なぜ、そうしたのか。それは簡単な理由からだった。
コンピュータの前に座ってビールを飲むような日々に嫌気が差していたし、体を動かす必要を感じていた。とはいえ、なぜ合気道だったのか。
その質問にはうまく答えられないが、運命としか言いようがないのではないかと思う。
合気道の稽古を始めるようになる半年ほど前から私は合気道のことをよく耳にするようになっていた。初めて耳にしたのは、ある科学系の学術会議で、数年間日本に住み合気道をしていたという人に出会った時のことだ。彼は私に合気道を学ぶよう強く勧め、自分が稽古をしていた浜松の道場の住所を教えてくれた。
また、私の継父はベラルーシで合気道を習い始めていたが、彼とスカイプで話すたびに「いつになったら日本の武道を始めるのか」と言われ続けた。合気道を始めた静岡大学の友人も稽古のようすをいつも私に話してきかせてくる。
ついに私は道場に足を運ぶ決心をした。
最初は週一回の稽古だったが、まもなく体を鍛えるにも合気道を学ぶにも練習量が足りないことに気が付いた。そして稽古を週二回に増やしたが、二ヶ月が経つ頃には週三回へと増えていった。いつしか私は当初の目的であった体を鍛えることよりも合気道をすることそれ自体が目的になっていた。
私は合気道をすることが楽しかった。
合気会本部道場師範が行う講習会、合気道静岡での地方講習会、合気道小林道場の合宿に特別講習会など可能なかぎり多くの稽古に参加した。すべての稽古は私に多彩で美しい合気道を見せてくれた。どの師範も技に独自のスタイルを持っておられたが、そのどれもが素晴らしく美しいものであった。見せていただいた多才な技の数々は、自分が目指したいと思う合気道の道を示してくれた。
大阪に引っ越してきた時、私は自分が目指したい合気道が学べる道場を選んだ。それは以前の先生とは違う新しい道場だった。先生が変わったことで本当に混乱したところもあったが、基本的な技術の深い理解に基づく正確で力強い合気道を学ぶことが出来た。
合気道は勝ち負けを競うものではない。そのため道場には友好的な雰囲気があった。練習相手は競争相手ではなく、誰もが互いに知識や技術を教え合い高め合う間柄だ。そうして長く練習を続けていくうち、道場は第二の家になり、練習仲間は第二の家族とも言えるようになってくる。
そうは言っても、あいにく私のヨーロッパ的精神は競争心を失うことはなかった。
つい練習相手を「ライバル」とみなして、いかに相手より上達するか技術を磨くかと考えてしまうところがあった。最初のうちは、そうしたことも急速な上達を助けてくれたが、徐々に私の思いは変わってきた。競争相手を必要としなくなってきたのだ。
今は私の倒すべき相手は私の内にあるのだと思う。怠け心や競争心を持ってしまいそうになる心、身体的な弱点など、自分の弱点に対峙するのは困難なことだが効果的だ:自己評価をせず他人との比較にもとらわれなければ、思考は柔軟となり身体もリラックスし技法を身につけることを速めてくれる。
大阪合気塾道場へ移ったことは、私の考え方を変えるのに非常に重要な役割を果たしてくれた。最初の2、3ヶ月は大変だった。以前の道場で習っていたことが通用せず、いつも稽古の後は不満と失望を感じていた。別の道場に移ろうかと考えることまであった。だが、それでは解決にならないことも分かっていた。
須磨先生の正確で力強い技と高木先生の信じられないほど素速い実技を見たとき、私の好きな合気道はここにあるとわかった。私は歯を食いしばり自分の弱さを踏み越えて次の稽古に向かった。そんな時、大國さんは暖かく和ませる態度で支えてくれた。羽賀先生の技法は、以前の私の先生の技法と須磨先生の技法との間を取り持つもののようだった。羽賀先生との稽古で私は2年半浜松で学んできた合気道を失うことはないのだと理解できた。
私は何か非常に重要なものを見逃していたようだ。いったい私の技法に何が欠けているのかと考えだした時に気づいた。私は基本的な技法の細部にわたって十分な注意を払っていなかったことが段々わかってきたのだ。美しく実効性のある合気道の動きをするためには細かなところまで正確でなければならない。そうでなければ合気道の技は決まらないのだ。
須磨先生は常に重要な点に焦点をあて、技の細かな要点を教えてくださるので、以前の道場では学ぶのに時間がかかった技も1回か2回の稽古で理解することができた。
私は外国人だから日本人のように良い先生について学び続けていられるような贅沢な時間は持てない。日本を離れる時が来れば、今のようにレベルの高い先生に稽古をつけてもらうことはできなくなるだろう。だからこそ私は、日本を離れ日本の先生からの日々の指導が無くなったとしても、正しい技法を練習し続けられるような基礎をしっかりと固めておくために一つ一つの稽古に取り組んでいく必要があると感じている。
しかし、集中力やモチベーションを保ち続けることは難しいかもしれない。だからこそ日本にいるこの時をしっかりと記憶にとどめておきたい。私はいつもこの稽古が最後と思って力のかぎり取り組んでいる。怠けたり、いい加減にすることなどできない、私にはそんな時間はないのだから。
今度の試験に向けて何を書くべきであろうか。黒帯取得を考えていないわけではない。私は本当に初段になりたい。数年前には想像もしていなかったことだ。私が合気道を始めたばかりの時は、有段者は経験豊富でものすごく熟練して見えた。黒帯を取得するなどまさに夢で到達不可能なレベルだと思った。その時の自分にとって黒帯はすべてを修めた人の象徴で、合気道を登山に例えれば初段試験は頂上一歩手前だと考えていた。
しかし、今は私の考えが間違っていたとわかる。初段昇段とは頂上に達したのではなく、それを目指す出発点につくことを許されたということなのだ。確かにそうなのだ。私の技術はまだ完璧には程遠く、袴を身に着けたからといって上達するわけでも、帯の色が変わったからといって技のスピードが早くなるわけでもない。
一つ言えるとすれば、袴を身に付けることには責任が生じる。私に初段の段位を授与することを恥じなかった須磨先生への責任、道場の有段者の方々への責任-私の技術を黒帯所持者にふさわしいものにする必要がある。
白帯の皆さんへの責任-彼らの手本となれるように。大阪合氣塾の生徒としても、道場を代表するひとりとしても恥ずかしくないようなレベルに達することが出来るよう、自分の合気道を磨いていかなければならない。
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