お知らせ

23日(日)本部道場にて4段審査を受けられるS野さんの感想です。

12月20日

「今までの合気道/人生を振り返って・・・」

S野H明  今回四段審査を受けさせて頂くに当たって、小論文をどうしよう・・・と考えあぐねている時に須磨師範より「今までの合気道を振り返って見るのも大事ですよ」と示唆を与えて頂きました。大阪合気塾で稽古をともにさせて頂いている皆さんにも見て頂く事を踏まえて、今までの合気道人生を振り返って見ることにしました。

 合気道との出会いは高校時代です。中学三年生の時に、ブルースリーが日本にやってきました。そう、「燃えよドラゴン」です。この映画を何回も見に行きました。何に惹かれたのかは今となってはわかりません。ヌンチャクかもしれません。

 そして高校に入ったら、空手部に入ろうと素朴に思っておりました。入学したのは府立池田高校です。阪急石橋駅から五月山の方へ登っていく途中にある学校です。中二で亡くなった母の母校でもあります(旧制中学時代は女子校でした)。  

因みにO國さんも同窓生です。入学してわかったのは、空手部はないということでした。どうしよう・・・と思っている時に同級生の一人が「合気道部に入った」と教室で「小手返し」という技を皆に披露してました。「へぇ~」と思い、何気なく「いっぺん連れて行って」とその同級生に頼みました。こうして、私は合気道部に入部しました。

 高校では、クラブを通して青春させて頂きました。合宿、文化祭での演武、昇級審査と思い出は尽きません。当時の同期とは今でも定期的に会っています。実は、中学までの私は運動の苦手なオタク少年でした。だから合気道の技ではなく、クラブとしてするランニングや筋トレは大の苦手でした。それでも辞めずに続けたのは今から考えると不思議です。

 合気道が面白かったからでしょうか?好きな女子の先輩がいたからでしょうか?太極拳を研究するような変なヤツと知り合いになったからでしょうか?おそらく全部でしょう。高二の夏休みは文化祭でする演武の練習に明け暮れました。当時の技のレベルは今から考えれば「なんちゃって」合気道の域を出てはいません。が、実は高二の時に、大学で合気道を続けている先輩が来てくれるようになったのです。その先輩方に連れて行って頂いたのが、籐平光一師範の(いわゆる「気の研」の)新大阪の道場でした。ビックリしました。今までやってきた(と言っても高々一年少々なんですが)合気道とは根本的に違う!と思いました(今ならそうではなく同じなんだということが理解できるんですが・・・)。この時点で大学でも合気道を続ける事は(私の中では)自明の事となったんだと思います。

 大学の志望は高校二年で決めました。動物生態学を学びたいと思いました。動物生態学が学べるのは関西では京大か大阪市大です。生物の先生に相談すると「君の成績では京大は無理だから大市大にしときなさい」と言われました。

 クラブ三昧の生活をしたお陰で浪人しましたが、何とか市大に入学でき(先輩が大学にいた事もあり、合格発表の時に万歳され)ました。入学手続の日にはクラブのビラを配ってました(ビラ配りの途中で自分の入学手続に行った事を覚えています)。

 大学ではコテンパンでした。変に自信を持っているのでやっかいです。これは私だけではなく、高校で経験している者に共通しています。まあ、それでも高校時代とは違う大学合気道生活を送りました。

 卒業する頃には、若さの特権の一つである「勘違い」をしていました。(今から考えると恥ずかしい限りですが)「俺って結構イケてるやん」というものです。この頃の私と同じ感じを持つ若者に出会うと、「ああオレもそうやったなあ・・」と思い、今後の為にできるだけボコボコにしてあげることにしています。

 大学をでて某製薬会社に勤めることになりました。時々大学の稽古に参加する程度です。「勘違い」はエスカレートし、合気道なんて・・・という感覚を持っておりました。西野流呼吸法に通ったのもこの頃です。

 その後、結婚・転職と合気道どころではない時期がしばらくあり、新しい職場で数年間日本拳法部の顧問をしました。甲冑武道ともいうべき防具には最後まで馴染めませんでした。様々な事情で日本拳法部から離れました。その後病気をし、その対策の一環で、自転車に乗り始めました。しかし通勤で二十キロメートルを往復したりしたため、下肢静脈瘤ができてしまいました。

 その中でやはり素肌武道がいいと思い始め、JR千里丘駅前の道場に行きました。ここは大東流(琢磨流)でした。「この人は植芝流やから、手首柔らかいで・・」などと言われたりしました。

一年くらいは通ったのですが、「何か違う」と行かなくなってしまいました。その後父の病気(癌)と死・後始末とバタバタしてしまいました。ホッとしたときに、今までやっていた合気道を再びやりたいと思いました。

 吹田薬剤師会の関連で、須磨師範のお兄様からご紹介を頂き、初めて大阪合気塾に伺ったのは平成十八年の一月の初めでした。 その頃は吹田第二地区の集会所で稽古していたのですが、自転車で行って迷いました。その日の稽古で、(四方投げでした)肘が「ビシッ」と言いました。須磨師範は「もう来ない」と思われたそうでが、私は逆にお世話になる事を決めていました。

それから七年が過ぎました。高校生で初段を允可していただいたきり、大学では昇段審査を受けませんでした。大阪合気塾で弐段と参段の昇級審査を受けさせていただきました。毎回の審査の度、自分の不出来さ加減に、悔しい思いをしました。 その間、あまりに進歩しない自分が嫌になり、「合気道やめたろか」と悩んだ時期もあります。そんな時、佐々木師範から様々なお言葉をいただき、また頑張ろうという気になったこともあります。 佐々木師範からは「わしの使った文や言葉は自由に使ってよろしい」とまで許可をいただきました。

合気道だけではなく、人として素晴らしい師範に巡り会えた事は、とても私の人生の中で貴重なものとなりました。 また、他道場の師範の方々にお目にかかれる事も私にとって大きな意味を持っています。これも全て須磨師範のお陰だと感謝しております。須磨師範の稽古に対する妥協のない姿勢から全てが生まれていると思います。(最近は少なくなりましたが)稽古中にコーナーに追い込まれることも多々ありました。そして、一つ一つの技を探求する姿勢はとても真似できるものではありません。また、合気道に対する姿勢だけではなく、人に対する間口の広さにも大変敬服しております。

こんな私にも「いる場所」を与えていただき、共にレベルアップしようと働きかけてくださる師範の元で稽古できている事はなんと幸せなことだろう、と思います。また、共に稽古に励む、同志とでも言うべき方々と知り合えた事も有り難い事だと感じています。

 こうやって、紆余曲折を経て現在の状況に至っています。私が学生の頃に故阿部醒石師範がよく言っておられた言葉があります。大学で合気道を一生懸命やっていた(はず)なのに、卒業するとパタッと合気道から遠ざかる人が多い事について話された時です。

「若い頃は仕事を一生懸命やったらええんや。また、合気道をやりたなったら、したらええねん。合気道は逃げへんから」。まさにそんな感じです。こうやって振り返ると、合気道を通して素晴らしい方々にお目にかかれている事に改めて気づきました。

 もちろん、技の未熟さは今すぐに改善できるものではなく、「薄皮を重ねていく」ようにしか改善できません。そのことから眼を逸らさずに、一つ一つの技を丁寧に丁寧に稽古していく。今はそのことを意識して日々の稽古を続けております。 今回の昇段審査では、個々の技の精度がどれくらい上がったか、平常心でどのくらいできるのか、中心力がどれくらい身についたか、を試してみたいと思っています。合気道と出会ってから三十八年、大阪合気塾にお世話になって七年の集大成とできるように頑張りたいと思います。

 皆様がこの小文に眼を通される時には昇段審査は終わっているかもしれません。どうだったでしょう?是非ご感想をお聞かせ下さい。

                           以上  

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