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2段審査に合格されたMさんの感想です。

7月17日

只の苦労自慢噺

 大阪、3年前の夏初月、私は転がり込んできました。新卒で入った会社を半年で辞め、長めのフリーター期間を経てから転職した兵庫県高砂市の会社を、自己の無能さ故に1か月で解雇になり、大阪に稼ぎを夢見て逃げてきました。しかし、人生そんな上手くいく訳がなく、コロナ禍で全く仕事がなく、日雇いとニートを繰り替えした日々を送った。自分をそれまで支えていた幼児的万能感を失い、太宰治作『人間失格』の「第二の手記」時の主人公のように酒と色欲に溺れ、貯金の142万円を1か月で溶かし、生活が退廃的になり将来をひどく悲観しました。
路頭に彷徨っていた最中、大学同期で大阪合氣塾のS氏の支えもあり、何とかその年の9月、正規の仕事に就くことができました。まともな社会人生活を送っていなかったため、最初は毎日怒られ呆れられ、安月給で業務スーパーの納豆(当時3パック55円)と米しか食えない日々でしたが、今では月30万貰える程の人間に生まれ変わりました。そんな人間に成る前の2022年のGW、帰省の折かつての大学の合気道部のOBがいる道場に遊びがてら稽古しに行きました。卒業して、生活が苦しかった上に忙しいだの言い訳を言って3年のブランクがあり、大して動けなかった中、OBに「お前中国語少し話せるんだろ。だったらさ、中国で合気道教えてみろよ」と素っ頓狂なことを言われました。私は一瞬閉口してしまいましたが、学生当時嘘偽りなく「毎日」夢中で熱心に稽古していた自分を思い出し、「自分の好きな国の中国で、若い人達に合気道で熱くなってほしい」と夢を見るようになり、「よし、基本を修めて鍛え直そう」と決意し、経済的に安定してきたこともあり、道場を探し始めました。そして、今私がお世話になっている大阪合氣塾に入門することになりました。

  入門当初当塾の技の形にカルチャーショックを受けながらも、当初の決意を忘れて過去の合気道の真似事をして楽しんでいた中、脳梗塞から復帰された須磨先生に1か月越しにお会いすることとなりました。しかし私は全く興味が沸かず、挨拶をせずに素通りし、先生から指導を受けました。先生は恐らく「礼儀知らずで生意気なガキが入って来やがった」とお思いになったのは、大変宣なることでしょう。今でも生意気な性格は変わりませんが、当時の私は学生時代頑張ったという薄っぺらな自尊心があった上に「こんな地味な動きの反復で強くなれるのか」と疑っていたと、昨今は思います。
そんな薄っぺらな自尊心をぐしゃぐしゃに砕いてくれたのが、当塾で同い年のSさんでした。子供の頃から合気道を続け、苦労しながらも真っ当な社会人生活を歩んできた彼女の合気道は基本に忠実で、洗練且つ練磨されており、まるで自分の対極にいるようで僻み妬み、そして彼女との稽古を避けたいと思うほど「上手い」と感じました。彼女と稽古するとき、あえて昔やっていた自分の自信のある合気道の形で挑んだこともありましたが、何もかも通じませんでした。何度もそんなことを味わう度に、「ああ、もう昔の合気道は通用しない。脳が焼かれた鮮烈な過去を一旦捨てないとこの人には勝てない」と思いようになりました。そういったルサンチマン的心理状態から、私はそれから当初の決意を思い出し、基本の反復を心がけるようになりました。余談ですが、心がけるまで、入門から1年半かかっています。こいつ遅いと思った方はご容赦を。

  話は変わりますが、私は過去合気道をやっていた所で、不思議な感覚に陥ったことがあります。ある昇給昇段審査の日、私はただの受け役で、周りの人達が「受けよろしくね」と、どこにでもある出来事でした。ただその時会場をふと見渡した時、「あ、ここにいる人達皆知っているし、彼らも自分を知っている。そして、たとえよく知らない人でも自分の受けを必要としてくれるし、自分にとってもこの人達が必要だ」。言葉にすると長くなりましたが、この共有感のようなものを私は「人の和」なのだと認識しました。この「人の和」を感じたとき、不思議な高揚感と安堵感で包まれました。そして、恐らくこの状態は、人がどの集団に属していたとしても、最終的に目指すところなのだろうと思いました。その当時まだ一匹狼臭く、天狗になっていたところがあった私は「人の和」の意識に取り込まれ心地よい気分を感じながらも、終始認めたがい気持ちありましたが、その当時最後だと思っていた合気道生活で得たものが、凄い合気道の技や理合いなどでもなく、このような温かい啓蒙だったのは財産だと今でも誇りに思います。

  やっと昇段審査の話に移りますが、直前にコロナになったのもあって、精神的に追い詰められながらも、それを楽しんでいた自分がいました。そして、そのような窮地にいたからなのか、審査が始まる前の休憩時間にこの「人の和」の感覚がふっと沸いてくるように感じました。ようやく自分の中で3年前の悲惨な状態から再起して、大阪合氣塾の一員になれた気がして、「ああ、この状態なら、身体が悪くても、『全部』を出せる」と万感の思いで確信し、自分が今注力して練習している基本動作を意識した合気道を出すことができました。途中太刀取りでしくじって、須磨先生の「ああ」という落胆にも似た声が聞こえましたが、普段の自分らしくもなく、全く動揺せず意識を切り替え、次々と技を取り行いました。また、後ろ両手取りの自由技のとき、一瞬頭が真っ白になりそうになりましたが、その時は過去の思い出の技がそっと自分を支えてくれて気が奮い立ち、そして最後ありったけの力と気持ちを振り絞って、「急」な3人掛けをして終えました。稽古後の洗心館の入り口で、五月晴れでふわりと広がった入道雲の先の水縹の空に意識が溶け込むほど、大変快然たる気持ちでした。

  勝手な思想ですが、私はこのような個人で且つ人前で合気道する機会があるとき、どれだけ技に自分の感情を乗せられるかを重視しています。それを重視している私からすると、今回の審査はミスした部分もあるので満足してはいませんが、今研鑽していること、過去の思い出、情熱、悲哀、そういった感情や思考の『全部』を出し尽くしたと思っています。また審査後の先生方の評価で、須磨先生が「武器技がね、、」と耳が痛いことを仰いながらも、姿勢と間合いを評価して頂けたことは、ほんの少し基本動作の反復した成果が出たのかなと勝手に自画自賛しました。ただ、須磨先生には大変失敬ですが、一番感銘を受けたのは今泉先生の言葉でした。いつも他の方の審査後の今泉先生の評価は割と辛辣と感じていて、「今日はどんな批評が聞けるかな」とわくわくしていましたが、「私にも若いころがありました」という天神筋6丁目商店街のマダムが言いそうな前置きをおっしゃった後、「一生懸命さと情熱がひしひしと伝わりました。その熱が今後どんな成長をするか楽しみです」。私は、技はともかく、感情からくる「熱」は伝わっていたのだと感極まりました。そしてその「熱」はあの「人の和」から生じたものであり、勝手に人の最終地点と納得していた「人の和」には先があったと新たな発見をし、当塾のTさんとOさんを巻き込んで今泉先生と須磨先生と酒の席で、もっと話したいと思うほどに、感謝の念に堪えませんでした。

  大変長文でエゴイズムな文になりましたが、今後も先生方、当塾の一緒に稽古されている方々への感謝の念は忘れずに、基本を研鑽し続け、最終的には「人の和」を伝え、その「人の和」から生じる「熱」が誰かに影響するような合気道を目指していきたいです。

 

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