3段審査に合格されましたTさんの論文です。
3月22日
3段審査を終えて
合気道を始めたのが43歳のときであったから、もう15年の月日が経とうとしている。はじめは、息子と一緒に始めることができて、自分の健康維持にも役立つものといった軽い気持ちで始めてみたが、50歳を過ぎ初段をとることができたころからだったか合気道が私自身の楽しみの一つとなっていた。そんな私ももうすぐ58歳。老後を意識する年齢となった。今後の合気道とのかかわり方を考えるうえで、今自分が合気道に何を求めているのかを少し考えてみた。
結論から言うと、次の3点に要約される気がする。
1)健康の維持。
2)知的好奇心。
3)関心を共有する仲間との交流。
これらについて姿勢ということを題材に簡単に記載してみることとする。
2段審査を受けたのがコロナ直前の時期であったから、2段の期間の大部分はコロナの時期に重なる。コロナを通じていくつかの変化があった。
一つは、合気塾が足を止めて結びを学ぶという稽古を始めたことだ。体全体を動かすということはそれだけで気持ちよく楽しいことではあるが、それだけでは相手と自分の体の中で起こっていることを理解することは難しい。結びという稽古は内観を重視した稽古であったため、繊細な身体感覚を理解するいい機会となった。おかげで自分の姿勢がどうなっているのかということも内観する癖がつくようになった。
二つ目の変化は、武術系 Youtube との出会いであろうか。コロナで稽古ができなくなり暇を持て余していた時に、寝酒の友として、何の気なしに Youtube 動画を見るようになった。「合気道」といったような keyword を適当にいれて最初は興味本位で見ていたのだが、思っていた以上にいろいろなマニアックな動画が上がっていることにびっくりした。その中でもひときわ大きな話題となっていたのが姿勢である。「たった5秒で体軸を作るイス軸法」「パンチの力を飛躍的に強くする秀徹の姿勢」などといった魔法のような姿勢の技術が多くの格闘家や武術家の間で驚きをもって迎えられていた。
姿勢に関しては、私にはどうしても避けては通れない問題がある。それは、足の指が動かないということだ。そのため、私の通常の姿勢はどうしても後傾となっているようだ。このことについて改めて考えさせられる機会があったことが3つ目の変化であろう。
コロナも明け、80をこえた⽗⺟と温泉に行った時のことだ。風呂上がりの脱衣所に、「あなたの体軸を測ります。」という機械が置いてあった。自分の体軸とやらがどういう状態なのか確かめてみようとその機械に乗ってみた。案の定、何度やっても後傾とでてくる。そこで、試しに前に倒れるぐらいの気持ちで足の指のほうに体重を乗せてみた。すると、はじめて「理想の体軸」という表示がでた。「これは無理だ。」その時、そう思った。自分はこの障害を受け入れて生きていくしかない。それと同時に、「年を取って筋力が衰えてきたときに、自分は転倒することなく歩き続けることができるのであろうか。」ということも心配になった。
気になり始めると、とことん調べてしまう性格である。その後、姿勢について Youtube やネットの検索、書籍等でいろいろ調べることとなった。そうすると、ある人は骨格のあり方から、ある人は筋肉のつき方から、ある人は脱力の仕方から、ある人は意識に言及しながら、立場は違えど多くの人が姿勢の大切さを指摘している。そういった様々な意見を参考にしながら自分なりに試してみては、合気塾の仲間や行きつけの整骨院の先生に意見を求めたりして自分の姿勢の修正を行っていった。自分に合った意見をどのように選ぶのかということについては、内観する癖を持つようになっていたことは本当に助けとなった。
その中で、後傾であるということそのものはそれほど問題ではないかもしれないということもわかってきた。というのも、望ましい体軸は人によって異なり、私にとっての望ましい体軸は、あの体軸測定器が示していたよりも若干後ろにあるという可能性もあるようだからだ。それよりも、私の姿勢は、反り腰で巻き肩気味であり、さらには顎が少し上がっているようで、それらのことが腕と体のつながりを損ねる原因となっているのではないかということが見えてきた。今までよく腰痛を感じていたのだが、そういった姿勢の結果、どうも腰に負担をかける体遣いとなっていたのは間違いないようだ。後傾は仕方ないとしても、できる限り脱力を心がけ、腰に負担をかけないように稽古をするということが、現在の私の課題となっている。
こういった経験を踏まえて、学んだことがいくつかある。一つ目は、「自分の体を受け入れて自分の体に合った姿勢なり技なりを探すしかないな。」ということだ。「足の指」ということもあるが、それ以外にも考えてみれば私の体は完璧からは程遠い。稽古をすればすぐに息が上がるし、準備運動のストレッチをしていても自分の体の硬さを思い知らされる。我が家の体重計には絶えず体脂肪率が高く筋肉量が少ない体であると警告を受けているが、今後、今以上に筋力も衰えていくであろう。もう若くもないのだから体を壊すことのなく自身の健康維持に役立つような稽古の在り方や自分の体に合った技の在り方を探しつづけるしかない。そう思うことが増えた。
二つ目には、「自分の体を受け入れて自分の体に合った姿勢なり技なりを探す。」というのは楽しいことでもあるなということだ。職業柄か、やっぱり私は考えることが好きだ。先生のような達人技はできずとも、自分の体に合った技を自分なりに探すプロセスを通じて得られる新しい「気付き」は私の知的好奇心を満足させてくれる。繊細な技の身体感覚を言葉で説明することには限界があるということは理解しつつも、頭でっかちな私は自分が「納得感」を得ることのできる言葉がどうしても欲しくなる。幸い、情報化社会の現在においては参考となる情報はたくさんあることは分かった。いろいろな情報を参考に自分なりの仮説を立てて稽古を行い
「受け」の反応と自分の内観から得られる感覚が自分の想像していたことに近いのかどうかということを確かめるプロセスは、自分の仮説が間違えていたとしても楽しいものである。
こういった楽しみ方は、どんな人との稽古でも楽しむことができる気がする。この点に自信が持ててきたことが3つ目の発見であろうか。合気道はいろいろな体格の方が、異なる目的を持ちながら稽古をしている。それでも、自分の体が思った通りに動いているかどうかを内観することを楽しみにしていると、どのような人との稽古でも自分の工夫次第で楽しめる。
自分なりの課題を相手に合わせて設定できるからだ。もちろん、お互いをよく理解している人との稽古が格別なのは間違いがない。そういった人とは、内観を通して、お互いの技の意図をくみ取り、即興で「受け」や「取り」の在り方を変えていくという楽しみ方ができる。
加えて、そういった内観を少しでも共有できる人との稽古後の飲み会での語らいは、研究者仲間と論文発表会の後に議論を交わしながら行う飲み会と同様、本当に楽しいものだなと思わざるを得ない。
先日、こういった楽しみの場は多くの人の努力があって出来上がっているのだということを気づかされる出来事があった。かつて合気塾にいて、現在仕事の都合で離れている先輩と久しぶりに飲んだ時のことだ。「今の道場では、全面的に自分の技が否定される。そこで合気道をするのは本当にメンタルがやられる。技の一方的な否定をしない合気塾がうらやましい。」とその先輩はぼやいていた。私は合気塾以外の道場を知らない。そのため他の道場のやり方というものはよくわからないが、合気塾が自分なりに考える楽しみを否定する道場であったら、私は合気道を続けることはできなかったと思う。大きな目で見守りながらも必要に応じてコメントを下さる先生や諸先輩方がいるということが当たり前のことではなかったのだということを改めて感じた。
最後に、そのことについて感謝の気持ちを述べて、筆をおかせていただきたい。

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